フランス カトリック プロテスタント

カトリック、プロテスタント②サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路 . プロテスタントの国ではカトリックの国においてよりも自殺率が高いというデュルケームの指摘は「社会学の分野における数少ない法則の候補として広く受け入れられるまでになっている」(Pope and Danigelis 1981)。 ローマ・カトリックとプロテスタントの違いをより深く理解するには、現在のそれぞれの宗派の国を比較するといいでしょう。一六世紀のヨーロ� Mark Greengrass, The French Reformation, (London, 1987). カトリック側の国は現在のオーストリアやドイツにあった神聖ローマ帝国とベーメン王国(現在のチェコ)、スペイン、デンマーク。プロテスタント側にはスウェーデンやフランス、オスマン帝国(現在のトルコ)、イギリスなどが加勢しています。 フランスの宗教状況を見ていきましょう。カトリック教徒が比較的多いものの、その割合は過去数十年の間に縮小し、現在は無宗教割合が増えているなど世俗化が非常に進んでいます。, フランスが持つ歴史は「現代世界史の幹」とも表現されるなど、近現代のヨーロッパが形成されていく上で、フランスは非常に大きな影響を与えてきました。, このように、ヨーロッパになくてはならない国として存在してきフランスは、他のヨーロッパ諸国と同じく、キリスト教が主な宗教であるという宗教的特徴を持ちます。, この記事では、そんなフランスの宗教について、現在の状況や各宗教の割合などを見ていこうと思います。, 西ヨーロッパ諸国の中にはキリスト教のカトリックの影響を強く受けている国が複数見つかりますが、フランスもまた「カトリック文化の国」であることは否定出来ない事実。, 実際、フランス国内には他のどんな宗教や宗派に属する人々よりもずっと多くのカトリック教徒がいます。, 一方で、フランスの国籍を持つ人の大多数が「自らをカトリック教徒である」と考えていた時代は、今となってはずっと昔のこととなってしまいました。, というのも、1986年には人口の80%以上が自らをローマ・カトリック教徒と考えていたものの、その割合は年々減っていき、2001年には69%、2010年には64%、そして2017年に実施された調査によると47.4%、つまり全人口の半分弱にまで落ち込んでしまったからです。, さらに、日曜日に行われる教会でのミサに参加する人たちの割合は全人口のわずか5%ほどで、言い換えれば、カトリック教徒全体の10%程度。, そして、このカトリック教徒の減少の主な原因は、現在のフランス共和国のアイデンティティの基礎の一要素ともなっている「ライシテ」の影響だと考えられます。, とされるもので、これによって「フランスにおける宗教の立場や役割は、例えばイギリスやアメリカ等と比べると、日常生活の中で限られている」と言える状況となっているのです。, 具体例を挙げると、イギリスやアメリカでは、しばしば宗教指導者がいる中で政治家たちが写真を撮られたり、イギリスでは大きな国家行事が宗教儀式によって特徴付けられることがありますが、フランスではそうではありません。, さらに、フランスの教育分野において宗教とそれにまつわる事柄は、しばしばタブーなテーマであると考えられてきました。, そのため、子どもに宗教教育を受けさせたい場合、親は放課後に宗教教育を受けさせるか、もしくは私立学校(多くはカトリック教会によって運営されている)に子どもを通わるのが一般的です。, このように、フランスのアイデンティティに強く根付くライシテによって、国家もその原則に従い、いわゆる世俗主義的な考えが一般社会に受け入れられていった結果、元々はカトリック教徒の割合が人口の80%近くを占めていたものの、現在は半分弱にまで減ってしまったと考えられるのです。, フランス国内にはまた、カトリック教徒以外のキリスト教宗派や、他の宗教を信仰する人々ももちろんいます。, 上述したPew Research Centerの調査によると、2017年の時点でフランス人口の54.2%にあたる人々がキリスト教に属し、47.4%のカトリック以外は、2.2%のプロテスタント教徒と1%の正教徒、そして、3.6%のその他の宗派を信仰する人々に分かれます。, また、キリスト教徒の次に多いのがイスラム教徒(ムスリム)達で、フランス全体の人口に占める割合は5%。, さらには、0.4%を占めるユダヤ教徒と、その他の宗教を信仰する人々が1.4%ずつとなっています。, 一方で、宗教的にはどこにも属さないとする「無宗教」の人々が37.8%存在し、そのうちの24.8%は無神論者であり、4.8%は人間は神の存在を証明することも反証することもできないと唱える不可知論者、そして8.2%は「特に何もない」と答えています。, 今日のフランスにおける宗教状況から、各宗教の割合までを見てきましたが、ここからはフランスにおける主な宗教グループについて、もう少しだけ見ていきたいと思います。, 全ての宗派を合わせた場合、フランスではキリスト教徒が未だに人口の過半数を占め、他の宗教グループと比較するとその数は圧倒的に多いこともあり、フランスはキリスト教国家と見なされます。, そんなフランスにおけるカトリックは、西暦466年頃から511年までに実在したメロヴィング朝フランク王国の初代国王「クロヴィス1世」が洗礼を受けた時に起源を遡るとされ、11世紀頃には現在のフランスにあたる地域にも大きな影響力を持っていました。, ちなみに、フランク王国は現在のフランス、イタリア北部、ドイツ西部、オランダ、ベルギーなど、西ヨーロッパの相当な範囲を占める大王国でした。, 一方で、他の西洋諸国にはプロテスタントが主流となっている国もありますが、フランスはそうではありません。, これは、1534年に檄文事件(げきぶんじけん)(注1)が起きると、当初はカトリックからプロテスタントへの分離を促す宗教改革運動に寛容だった当時のフランス国王「フランソワ1世」がプロテスタントを脅威だと感じ始め、プロテスタントを弾圧・迫害したことに依ります。, 結果、現在はカトリックがフランスの国中に広まっているのに対し、プロテスタントはほぼ、フランシュ=コンテ地域の北部、アルザス、セヴェンヌ山脈の一帯に限定されることとなりました。, (注釈1)檄文事件とは、「教皇のミサの恐るべき、重大な、耐えがたい弊害について真正な諸箇条」と題する檄文が、パリやオルレアンなどの諸都市に張り出された事件。教皇のミサ、とくに聖餐論における化体説を非難するものであったものの、檄文はアンボワーズの宮殿内のフランソワ1世の寝室の扉にも張られていたため、国王の激怒を招く結果となった。, 上で説明したような理由から、過去の長い歴史の中で、フランスはヨーロッパにおける「カトリック」の主要国の1つとなってきました。, またその後、イギリス、スイス、ドイツやスカンジナビア地域のヨーロッパ諸国がプロテスタントを採用した一方で、フランスはカトリックを主な宗教として維持してきました。, しかし、1789年のフランス革命を経験してからおよそ100年が経った1905年のフランスでは、「政教分離法」が公布され、先述した「ライシテ」の原則が法律で規定されることとなったのです。, これによってカトリックは、法律的には多くある他の宗教と変わらない一宗教という扱いになり、フランスにおいて他の宗派や宗教と比較すると優勢な宗教のままではあるものの、時間の経過とともに社会は世俗化していき、現在はカトリック文化の国でありながらも、世俗的な人がとても多い国へと変貌しました。, 総人口に占める割合は現在のところ、およそ5%を占めており、その大多数はとりわけ、モロッコ、アルジェリア、チュニジアなど、フランスの旧植民地国に所縁がある人々です。, さらに、イスラム教に関する一つのトレンドとして、イスラム教諸国にルーツを持つ移民の受け入れなどによって、少しずつではありますがイスラム教徒の割合が増えているという点を挙げることが出来、また、フランス国内には30校ほどのイスラム教系の学校が存在しています。, 一方で、他の多くの国ではムスリム女性が顔を隠すために着用するスカーフやベールの着用が許されているのに対して、フランスでは身元を隠すとしてセキュリティ対策を理由に、公共の場で顔や頭を覆うスカーフやベールを着けることは禁じられています。, そのため、ムスリムにとても寛容的であるとは言い難く、また、「自由」を標榜するフランスにとっては矛盾と言える状況が生じています。, 無宗教は宗教と言えないため、宗教グループと見なせるかどうかの疑問が生じますが、フランスの宗教状況を理解する上では大切であり、また、大きな人口割合を占めるため、無宗教の人々についても触れておきます。, 19世紀初頭、まだフランスで「政教分離法」が制定される以前、カトリックが国の政治と一体だった時、神の存在に疑問を持ったり無関心を公言する者達は道徳的価値観がないとして、社会的に制裁を受けることもありました。, しかし、20世紀始めに政教分離法が公布されると、主に若い世代を中心に徹底的に無宗教を公言する人々が増えていき、世代が変わるごとにその割合は増えていったのです。, さらに、2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件以降、一部の人々はイスラム教に対して恐怖を抱くようになり、これが世俗化(ライシテの右傾化)を促すことになったとも言われ、より多くの無宗教の人々を生み出したのではないかと考えられています。, フランスは歴史の中でカトリックが主流となっており、また、カトリック文化の影響も強く受けてきましたが、「ライシテ」によって世俗化が進み、現在はカトリック教徒の割合も人口の半分以下にまで減少しています。, ただ、そんな今日のフランスであっても、他の宗教と比較して未だにカトリック教徒の割合は圧倒的で、いくらイスラム教徒の割合が増えていると言っても、その増加速度は非常に緩やかなため、今後もカトリック主流の宗教情勢が長く続いていくと予想出来ます。, 当サイトは当サイトのメイン管理人である「ハリマン」が、内向きになりつつある日本人をもう少しだけ外向きにしたいという思いで運営しています。 さらに詳しくは下のホームボタンをクリックしてください。. ユグノー戦争(ユグノーせんそう、フランス語:Guerres de religion, 1562年 - 1598年)は、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦である。. 神父と牧師だったか 神父がカトリックで、プロテスタントが牧師なのね 正教は司祭かな? 371 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です … カトリックは神父。プロテスタントは牧師と呼びます。 神父とはローマのカトリック教会で教皇などから叙階を受けて教会にて儀式や典礼を執行したり、人々を導いたりするなどといったことをする司祭の敬称を指しているのです。 プロテスタント→フランス人 . プロテスタントは、フランスでは少数派です。 歴史的背景として、かつてフランスのプロテスタント教徒はユグノーとよばれ、カトリックとの内乱があり1572年のサン バルテルミの虐殺で、カトリック教徒が、プロテスタント教徒を大量に虐殺したということなどもあります。 宗教戦争は、「ナントの勅令」の1598年まで続き、プロテスタントにも宗教の自由が与えられたのですが その後ルイ14世により、その勅令を廃止、カトリック中心の権威主義国家となり、多くは国外へと逃れていき現在は … Mark Greengrass, Governing Passions: Peace and Reform in the French Kingdom, 1576-1585, (Oxford, 2007). ローマ・カトリックと東方正教会に分かれて世界に広がっていったキリスト教は、一六世紀に大転換期を迎えます。これがよく知られた宗教改革� カトリックの多い国:フランス、イタリー、スペイン、ポルトガルなど。 プロテスタントの多い国:イギリス(英国国教会は一応プロテスタントと見なす)、アメリカなど。 両方半々の国:ドイツ、オラン … 「カトリックとプロテスタントの違い」を感じる上だと、地味に重要な部分の一つよ。 教会の懺悔ボックス(告解室) 「七つの秘跡」にも含まれる、「ゆるしの秘跡」で使われる場所。 片方が神父さん用で、もう片方が「懺悔する側」の人用入り口になっている。 「ミサ前・ミサ後に神父様� この記事は世界遺産検定2 カトリックが神父でプロテスタントが牧師みたいなのも流派によって変わるからな カトリック幼稚園出身だけど校長は牧師だった 378 番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (テテンテンテン MM8f-77PV) 2020/11/26(木) 13:52:34.08 ID:oUBCGkoIM カトリックの式とプロテスタントの式の両方の式の中に「説教」の時間がありますが、カトリックにおいては5分~15分ぐらい、プロテスタントでは20~40分ぐらいが一般的です。重きを置いている箇所がそれぞれ違うと考えていただければわかりやすいとおもいます。 65–93. Salmon, pp.124–5; the cultural context is explored by N.M. Sutherland, "Calvinism and the conspiracy of Amboise", see his speech to the Estates General at Orleans of 1560, Philip Benedict, ‘Un roi, une loi, deux fois: Parameters for the History of Catholic-Protestant Co-existence in France, 1555-1685’, in O. Grell & B. Scribner (eds), Tolerance and Intolerance in the European Reformation (1996), pp. 儀式のことを典礼(ミサ)と呼ぶ 4. カトリック側の国は現在のオーストリアやドイツにあった神聖ローマ帝国とベーメン王国(現在のチェコ)、スペイン、デンマーク。プロテスタント側にはスウェーデンやフランス、オスマン帝国(現在のトルコ)、イギリスなどが加勢しています。 ユグノー戦争 (ユグノーせんそう、 フランス語 :Guerres de religion, 1562年 - 1598年 )は、 フランス の カトリック と プロテスタント が休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦である。 今の地球上でお金持ち国は、プロテスタントの国と儒教国で、カトリックや石油の出ないイスラムなどは貧乏国ばかりです。これはたまたまですか?それとも宗教に問題があるのですか?よろしくお教えください。こういうのは、歴史をみるとよ フランスでは、人口の約80%がカトリックであると聞いておりますが、イギリスでは ほとんどの人々がプロテスタントであるというのは本当でしょうか? カソリックとプロテスタントの違いは、東京で言う … カトリックとプロテスタントとの結婚は、もう何百年も前からあることだったけど、決して、社会的に歓迎されるものではなかった。 何も聞かれずに結婚できるようになったのは、本当にここ数十年のこと … フランスの宗教状況を見ていきましょう。カトリック教徒が比較的多いものの、その割合は過去数十年の間に縮小し、現在は無宗教割合が増えているなど世俗化が非常に進んでいます。フランスが持つ歴史は「現代世界史の幹」とも表現されるなど、近現代のヨーロッ 今の地球上でお金持ち国は、プロテスタントの国と儒教国で、カトリックや石油の出ないイスラムなどは貧乏国ばかりです。これはたまたまですか?それとも宗教に問題があるのですか?よろしくお教えください。こういうのは、歴史をみるとよ カトリックのハプスブルク家という共通の敵と戦っているプロテスタントに、オスマン帝国からさまざまな働きかけが行われた。スレイマン大帝は少なくとも一通の手紙をフランドルのルター派に送ったことで知られている。その中で、もし望むなら軍隊を送ると記している カトリック国のフランスですが、ルーブル宮のすぐ北側にプロテスタント教会もあります。もっともこの教会の外観も内装も、あまりプロテスタントっぽくはありません。というのも、革命期に押収されたカトリック教会が、ナポレオンによってプロテスタントに与えられたからだそうです。 この記事はそんな悩みにお答えします。 フランスではカソリックやプロテスタントなどの特定の宗派を優遇もせず冷遇もせず、国家として各宗教には完全に中立的で平等な対応をとる、と表向きはするが基本的にはプロテスタントを優遇しカトリックやユダヤ教などの他の宗教はその下としようと思う。 フランスのカトリック左派もまた、労働者や零細農民を貧困から解放するためには、教会を中心とした慈善活動だけでは限界があるとして、政治活動に力を入れ、この結果「第二の左翼」の別名を授けられるまでになっていた。 カトリックの国フランス。そのためフランス国内には沢山の教会や大聖堂があります。有名な所から地元の人にしか知られていない様な小さな教会など様々ですが、今回は教会の好きな方に是非立ち寄って頂きたいおすすめの教会をご紹介します。 フランスのカトリック左派もまた、労働者や零細農民を貧困から解放するためには、教会を中心とした慈善活動だけでは限界があるとして、政治活動に力を入れ、この結果「第二の左翼」の別名を授けられるまでになっていた。 カトリックの多い国:フランス、イタリー、スペイン、ポルトガルなど。 プロテスタントの多い国:イギリス(英国国教会は一応プロテスタントと見なす)、アメリカなど。 両方半々の国:ドイツ、オラン … カトリック国でありながらフランスわどーしてプロテスタント側を支援したのですか?教えて下さいΣ(・ ・;)神聖ローマ帝国が強大になることをフランスが望まなかったからです。三十年戦争は宗教戦争という面に注目されがちです。たしか まず最初はわかりやすさ重視。 ざっくりと簡単に言い切っちゃうよ。 プロテスタントはなんと言っても「聖書主義」。 聖書こそが唯一頼れるもので、他を頼る必要もない。……って考えが基本。 そのため(聖書で理想とされてる)清らかさを強く求めるところも多い。 プロテスタントのもうひとつの特徴が、「千差万別」。 個々の教派・教団によって、驚くほど意見が違う。真反対なこともしばしば。 カトリックはなんと言って … ユグノー戦争(ユグノーせんそう、フランス語:Guerres de religion, 1562年 - 1598年)は、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8次40年近くにわたり戦った内戦である。, ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まったが、ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側からユグノー(huguenot)と呼ばれた。ユグノーには貴族も加わり、弾圧にもかかわらず勢力を広げていった。1562年にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の1572年8月24日には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。, 宗教上の対立であるとともに、ブルボン家(プロテスタント)やギーズ家(カトリック)などフランス貴族間の党派争いでもあった。加えて、この戦争はカトリックのスペイン王フェリペ2世とプロテスタントのイングランド女王エリザベス1世との代理戦争の性格も有している。1589年にギーズ公アンリ、次いで国王アンリ3世が暗殺されてヴァロワ朝が断絶し、アンリ4世が即位してブルボン朝が興った。パリではカトリックの勢力が強く、プロテスタントの王を認めなかったため、アンリ4世はカトリックに改宗している。一方でナントの勅令(1598年)を発して、プロテスタントに一定の制限の下ではあるが信仰の自由を認め、戦争は終結した。, ルター思想は1520年代にフランスに伝わり、プロテスタントに対する政策は寛容と弾圧の間で揺れ動いていた。イタリア戦争の渦中にあったフランソワ1世(在位:1515年 - 1547年)は神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯の反乱を支援しており、フランス国内における信者に対して寛容であった。それ以上にルター派と宮廷内で人気のあった人文主義改革運動との区別が曖昧であり、また国王の姉ナバラ王妃マルグリットはルフェーヴル・デタープルなどの改革者たちを異端の嫌疑から庇護していた。だが、1534年に檄文事件が起こるとフランソワ1世はプロテスタントを脅威と感じ、彼らを弾圧し始める。, アンリ2世の治世(1547年 - 1559年)でも迫害は断続的に続き、治世の終わり頃に異端審問のための新たな法廷が作られ、これはプロテスタントからは火刑法廷(la chambre ardente)と呼ばれた[1]。これはこの時期にカルヴァン派がルター派を凌いでフランス国内におけるプロテスタントの主流になり、急速に数を増やしたことの反動と見られる。フランス生まれのジャン・カルヴァンによって作られたカルヴァン主義は、社会階層や職業の違いなく人々を惹きつけ、更には地域差なく広範囲に広まっていた。, 1559年、66のカルヴァン派信徒団の代表が秘密裏にパリに集まって第1回全国教会会議を催し、信仰告白と教会規則を作成した。1560年時点で、カルヴァン派はフランス総人口1800万人の約10%と推定されている[2]。, 1559年のアンリ2世の突発的な事故死は政治的空白を作り出し、フランソワ2世の妃であるスコットランド女王メアリーの母方の親族であるギーズ家が実権を握った[3]。キーズ公フランソワはカレーをイングランドから奪回した英雄であり、その弟のロレーヌ枢機卿はフランス・カトリック教会の首長で、いずれも熱狂的なカトリックだった。一方のプロテスタントはブルボン家当主のナバラ王アントワーヌを盟主に戴いていたが、熱狂的プロテスタントの妻ナバラ女王ジャンヌ・ダルブレ(ナバラ王妃マルグリットの娘)に主導権を取られる頼りない人物で[4](戦争中は寝返ってカトリックに改宗している)、後に弟のコンデ公ルイがプロテスタントの中心となる。, 1560年3月、プロテスタント貴族ラ・ルノーディを中心とする不平貴族たちがフランソワ2世を誘拐してギーズ家を除こうと謀った。だが陰謀は露見し、数百人の容疑者たちが処刑されてしまう[5]。ギーズ兄弟はブルボン家のコンデ公ルイが黒幕であると疑った。コンデ公は11月に逮捕された。このことにより対立は一層深まった(アンボワーズの陰謀)。, この後の論争の中で、フランスのプロテスタントはユグノーと呼ばれるようになった[6]。ユグノーはドイツ語のEidgenosse(アイドゲノッセ、盟友の意味)から生まれた蔑称である。, ユグノーによるカトリック教会に対する最初の聖像破壊が1560年にルーアンとラ・ロシェルで発生し、翌年には20の都市に広まった。これに激怒したカトリックの都市住民による流血の報復がサンス、カオール、カルカソンヌ、トゥールその他の都市で行われた[7]。, 王太后カトリーヌ・ド・メディシスはフォンテーヌブロー諮問会議を召集してカトリックとプロテスタントの融和を図るが、ギーズ家は異端絶滅を計画していた[8]。, 1560年12月、フランソワ2世が死去し、弟のシャルル9世が即位。王太后カトリーヌ・ド・メディシスが摂政となる。経験不足とヴァロワ・ハプスブルク戦争の借財のため、カトリーヌは強力な私軍を有する貴族たちの激しく対立した利害関係を慎重に舵取りをせねばならないと感じた。彼女は敬虔なカトリックであったが、強大なギーズ家を牽制するために、ユグノーの盟主であるブルボン家を優遇してナバラ王アントワーヌを国王総代官(Le lieutenant-général)となし、コンデ公ルイに特赦を与えた[9]。また、彼女は協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを重用した。ロピタルは市民の平和のための幾つかの手段を提案し、神聖会議による宗教的解決を主張していた[10]。, 1561年1月に摂政カトリーヌはオルレアン寛容勅令を出すが、これに反発したギーズ公フランソワがアンヌ・ド・モンモランシー、ジャック・ド・サンタンドレと三頭政治を結成して反動政策に乗り出す[11]。, 同年8月に司教会議がユグノーと話し合うようにとの王家から要請を受け入れて、サン=ジェルマン=アン=レー三部会の中で宗教会談が開かれた(ポワシー会談)。プロテスタントはテオドール・ド・ベーズを長とする12人の牧師と20人の平信徒が代表となった。双方とも相手を受け入れようとはせず難航したが、新たな統一の基礎となりうるある程度の一致に達した。ベーズとギーズ家のロレーヌ枢機卿との会談で、礼拝様式に関して両者の妥協がなされるかに見えたが、10月の最終会談でカトリックとプロテスタントとの思想の溝は既に大きく広がってしまっていることがはっきりした[12]。, 1562年の初めに摂政政府は、宮廷内の党派争いに扇動された地方の無秩序を抑えるべく、サン・ジェルマン勅令(1月勅令)を発した。勅令は反乱を回避するためにユグノーに譲歩をし、城壁外および屋内での礼拝を容認していた。だが、3月1日、シャンパーニュのヴァシーでギーズ家の郎党が礼拝をしていたカルヴァン派を襲撃し、虐殺する事件が発生してしまう(ヴァシーの虐殺)。ユグノーのジャン・ド・フォンテーヌは次のように述べている。, 「ギーズ公がやって来た時、プロテスタントたちは勅令に従って城壁の外で礼拝を行っていた。何人かの従者が礼拝者たちを侮辱すると喧嘩沙汰になり、そこで偶然に公自身が頬に傷を受けてしまった。公の流血を見た従者たちは激昂しヴァシーの住民に対する虐殺が起こった。」[13], ヴァシーの虐殺は2つの宗派間の抗争を引き起こすことになった。ブルボン家のコンデ公ルイは「悪」の大臣たちから王と摂政を解放すると宣言し、プロテスタント教会を組織化してロワール川沿いの町々を占拠し、軍隊を駐留させた。実際にはユグノーたちはヴァシー事件以前から動員を開始していたが[14]、コンデ公ルイは虐殺を勅命が破られた証拠であるとし、彼の軍事行動の大義名分に用いた。そして、戦闘が起こると実際にこの勅命は、ギーズ家の圧力によって取り消された。ユグノーは イングランド女王エリザベス1世とハンプトン・コート条約を結び、援助の見返りにル・アーヴル、ディエップ、ルーアンを引き渡す約束をする。これに従い、イングランド軍がル・アーヴルに上陸した。, 主な戦いはルーアンとドルー、そしてオルレアンで起こっている。ルーアン包囲戦(1562年5月 - 10月)では国王軍が町を奪回したものの、ナバラ王アントワーヌが戦死した。ドルーの戦い(1562年12月)ではコンデ公ルイがギーズ家の捕虜になったが、ブルボン家も敵の司令官アンヌ・ド・モンモランシーを捕らえている。1563年2月のオルレアン包囲戦において、ギーズ公フランソワがユグノーのポルトロ・ド・メレに銃撃され、その傷が元で死亡した。ギーズ家は暗殺は敵対者のコリニー提督の差し金であると信じた。暗殺によって引き起こされた暴動とオルレアンが陥落しないため、カトリーヌが和平調停を行い、アンボワーズ勅令が発せられた。, アンボワーズ勅令は全ての関係者にとって不満足なものであり、とりわけギーズ一派は異端との危険な妥協であると見なして反対した。それにもかかわらず、王家は両派の和合はイングランドに占領されているル・アーヴルの奪回のために必要であると考えていた。7月にイングランドを追い出すことに成功し、翌月シャルル9世は成人を宣言、カトリーヌ・ド・メディシスの摂政は終わった。しかしカトリーヌはなおも政治を主導し続け、1564年から1566年にかけて彼女は息子の国内巡幸に同行して国王の権威の再興を図っている。巡幸の最中の1565年2月、カトリーヌはスペイン王首席顧問アルバ公とバイヨンヌで会談を持った。会談の内容は不明だが(スペインがプロテスタント礼拝禁止を迫ったともされる[15])、熱烈なカトリックであるスペイン王フェリペ2世の使者との会談はユグノーたちに警戒される[16]。, フランドルでの聖像破壊の報告を受けたシャルル9世が、この地のカトリックへの支援を行ったことが、ユグノーたちに危機感を起こさせた。スペイン軍がフランドルでのプロテスタントの反乱を鎮圧するためフランス領を通過し、その警戒のために国王が軍備を増強させたこともまた、ユグノーを恐れさせ、政治的不満が増大した。1567年9月にプロテスタント軍はシャルル9世を誘拐して自陣営に取り込もうと謀ったが失敗(モーの奇襲)、続いてラ・ロシェルなどのいくつもの都市がユグノー側に就くことを宣言した。ニームではカトリックは聖職者も平民も虐殺され、この事件はミチェラード(Michelade)と呼ばれている。, この事件が第2次戦争を引き起こした。主な戦闘はサン=ドニの戦い(1567年11月10日)で、国王軍が勝利したものの司令官アンヌ・ド・モンモランシーが戦死している。その後、ユグノーはオルレアンとブロワを攻略してパリに迫る。1568年3月にロンジュモーの和議が結ばれ、プロテスタントに対して信仰の自由と権利が与えられた。, 1568年夏、この和平に反抗するようにカトリックが各地でユグノーの迫害を始め、ユグノーもこれに報復してカトリックを虐殺した[17]。王太后カトリーヌ・ド・メディシスは協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを罷免し、政情はカトリック優勢へ傾いた[18]。身の危険を感じたコンデ公ルイとコリニー提督らユグノー指導者たちは宮廷を脱出したが、彼らの部下の多くが殺害された。9月、サン・モール勅令が出され、ユグノーの礼拝の自由は再び禁じられてしまった。11月、ネーデルラント反乱軍の指導者オラニエ公ウィレムがプロテスタントを支援するために軍を率いてフランスへ侵攻する。だが、彼の軍隊は給与を十分に支払われておらず、このため国王が資金と通行の安全を申し出ると撤退してしまった。, それにもかかわらず、ユグノーはコンデ公ルイを司令官とし、フランス南西部の軍勢とドイツからのプロテスタント民兵(プファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヴォルフガング率いる1万4千の傭兵部隊を含む[19])の助けを受けて強力な軍隊を編成した。傭兵部隊はコンデ公ルイの戦死後もユグノーに雇用され続けており、このためにユグノーはナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの王冠の宝石を担保にイングランドから借金をしている[20]。ユグノーの軍資金の多くはイングランド女王エリザベス1世から提供されたもので、これは彼女の腹心フランシス・ウォルシンガムの影響力によるものと考えられている[19]。カトリック軍は王弟アンジュー公アンリが司令官となり、スペイン、教皇領、トスカーナ大公国の援軍を得ていた[21]。, ユグノー軍はラ・ロシェル防衛のためにポワトゥーとサントンジュ地方の幾つかの都市を包囲し、それからアングレームとコニャックを攻めた。1569年3月16日のジャルナックの戦いでユグノーの司令官コンデ公ルイが戦死し、狂喜したアンジュー公アンリはコンデ公の死体をロバにつないで引きずり回している[22]。, ユグノーはコンデ公の15歳の息子アンリを名目上の司令官としてコリニー提督が指揮を執ることになり、また国王の権威に対抗するためにナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの16歳の息子アンリ・ド・ベアルンを指導者とした。, ユグノーはラロシュ=ラベイユの戦い(1569年6月25日)に勝利したもののポワチエを奪取することはできず、モンコントゥールの戦い(1569年10月30日)で国王軍に大敗を喫してしまう。コリニーと彼の軍隊は南西部へ後退してモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュと合流し再編を行い、1570年春にトゥールーズを掠奪して南部への連絡路を切断、そしてローヌ渓谷を進軍し、パリから200kmのラ・シャリテ・シュルラ・ロワールに達した[23] 。戦争によって王家の負債は激増しており、シャルル9世が平和的解決を望んだため[24]、1570年8月8日にサン・ジェルマン和議が結ばれ、再びユグノーに対する譲歩がなされた。, この当てにならない和平にもかかわらず、ルーアン、オランジュ、パリなどの都市ではカトリックの群衆によるユグノー虐殺が続いていた。宮廷の事情は更に複雑で、シャルル9世がユグノーたち、とりわけコリニー提督と結びつき始めた。一方、王太后カトリーヌはコリニー提督とその支持者たちの権勢の拡大を食い止められないこと、特にコリニー提督がイングランドやネーデルラント反乱軍との同盟を主張していたことが明らかになると、次第に脅威を感じ始める。, 1572年8月18日、コリニー提督やその他のカルヴァン派貴族たちが王女マルグリットとプロテスタントのナバラ王アンリ(同年6月の母の死により王位を継承)の結婚式に参列するためパリにやって来た。8月22日、通りの窓からコリニー提督を狙撃する暗殺未遂事件が起こる。歴史家の間では暗殺者がシャルル・ド・ルビエであることは定説になっているものの、暗殺の指示者は明らかになっていない(カトリーヌが指示したとの広く知られる説は当てにならない)[25]。, ユグノーによる報復クーデターを恐れたギーズ公アンリとその一派は行動を起こし、8月24日早朝に従者とともに宿屋にいたコリニー提督を襲撃して殺害した。コリニー提督の死体は窓外へ投げ出され、その後、死体はパリ市民によって無残に切り刻まれ、切断されて、群衆の中を引き回された末に川に投げ込まれ、絞首台に釣り上げられた後に焼かれた[26]。その後5日間にわたって大規模な虐殺が行われ、カルヴァン派は男も、女もそして子供までも殺され、彼らの家々は略奪された。これらの蛮行に王の許可はなく、予測もされないことだった[27]。5週間にわたり、十数の都市で無秩序が広まった。結局、パリではおよそ2000人のユグノーが虐殺され、地方ではおそらく1万人が犠牲となった[28]。ナバラ王アンリと従弟コンデ公アンリは、カトリックへの改宗に応じたことで辛うじて死を免れた。, スペイン王フェリペ2世とローマ教皇グレゴリウス13世はこの結果に対する満足の意を表明したが、ヨーロッパ中のプロテスタントたちには恐怖と憤慨を引き起こしている。フランスではユグノーたちが恐慌状態になり、カトリックへ改宗する者が続出し、一部は国外に亡命して、王家に対抗するユグノーの力が酷く弱まってしまった[29][30]。, 一方で、残ったプロテスタントはより過激になり、君主を選ぶ権利は人民にあり、君主が暴政を行うならば追放することができるとする「暴君放伐論」が唱えられた[31][32]。また、法曹家を中心とした穏健なカトリック教徒たちはカトリック過激派の暴走を危惧し、王国の分裂を防ぐためにカトリックとプロテスタントとの融和とより強い王権の確立を主張するようになり、彼らはポリティーク派と呼ばれた[33][34][35]。, 虐殺はさらなる軍事行動を引き起こし、カトリック軍はアンリ・ド・モンモランシーの軍がソミエールを、アンジュー公アンリの軍がサンセールとラ・ロシェルを包囲した。1573年5月にアンジュー公アンリがポーランド王に選出され、ポーランド議会代表の介入によりラ・ロシェルの包囲は解かれ[36]、7月にブローニュ勅令が発せられると戦闘は終結した。, ブローニュ勅令は以前ユグノーに与えられた権利を縮小したもので、全てのユグノーに過去の行動の赦免と信仰の自由が与えられたが、礼拝はラ・ロシェル、モントーバン、ニームの3都市でのみ許され、しかも住居内のみであった。上級裁判権を持つプロテスタント貴族は結婚式と洗礼式を挙げることが許されたものの、家族以外の参列は10名に制限されている[37]。, アンジュー公アンリが不在の間、シャルル9世と末弟アランソン公フランソワが諍いを始め、多くのユグノーが保護と支持を求めてアランソン公フランソワ周辺に集うようになった。1574年2月にサン・ジェルマンでクーデター未遂事件が起きたが、申し立てによればその目的はサン・バルテルミの虐殺以降宮廷に捕らえられているナバラ王アンリとコンデ公アンリの救出であった。同時にバス=ノルマンディー、ポワトーそしてローヌ渓谷[38]などでユグノーが蜂起し、戦争を再燃させた。, アンジュー公アンリがポーランド王に即位した3ヶ月後の1574年5月、シャルル9世が死去した。王太后カトリーヌはアンリが帰国するまで摂政に就任すると宣言する。アンリは秘密裏にポーランドを去り、ヴェネツィア経由でフランスに帰国した。帰国した彼はラングドック地方総督モンモランシー=ダンヴィルの裏切り(1574年11月)に直面することになった。不満派(ポリティーク派)のダンヴィルは南フランスのユグノーと結託して王家に背いてしまった[39][40]。, 1575年2月に彼はランスでアンリ3世として即位し、ギーズ家の同族であるルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンと結婚した。国王は4月には交渉を模索していた[41] 。だが、9月に末弟アランソン公フランソワが宮廷から逃亡して、不満派の頭目になる。更にプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハンがシャンパーニュに侵攻したことからも、国王に敵対する連合軍の勢力が圧倒的になる可能性が俄然増してきた。国王は慌ててアランソン公との7カ月の休戦協定を交渉し、ツヴァイブリュッケン公の軍にはライン川東岸に留まることを条件に50万リーブルの支払いを約束したが[42]、いずれも和平を確実にするものではなかった。, 1576年の始めにナバラ王アンリとコンデ公アンリがパリからの脱出に成功し、先の改宗を否認してプロテスタントに復帰する。3月、国王はアランソン公フランソワとユグノーの条件を受け入れることを強いられ、「王弟殿下の和議」(paix de Monsieur)と呼ばれるボーリュー勅令を出した。勅令ではパリ城壁内以外の全ての場所でのプロテスタントの公的礼拝が認められ、更にユグノーに安全保障都市が8箇所与えられた[43]。, ボーリュー勅令はカルヴァン派に対して多くの譲歩をしていたものの、これに反対すべくカトリック過激派のギーズ公アンリがカトリック同盟を結成したため、短命に終わってしまった。ギーズ家は長きにわたりカトリックの守護者と見なされており、ギーズ公アンリとその親族(マイエンヌ公シャルル、オマール公シャルル、エルブフ公シャルル、メルクール公フィリップ・エマニュエル、ロレーヌ公シャルル3世)が同盟に忠誠を誓う広大な地域を支配していた。同盟はまた都市中間層に多くの支持者を持っていた。, 1576年のブロワ三部会は事態の解決ができず、12月にはポワトゥーとギュイエンヌのユグノーが武装蜂起する。ギーズ一派がスペイン王家からの確固とした支援を受けていた一方で、ユグノーにも南西部に強固な地盤を持つ強みがあった。彼らはまた国外のプロテスタント諸国からの支援を受けていたものの、実際にはイングランドやドイツ諸邦は少数の軍隊を送ったにすぎない。, 今回の戦争では王弟アンジュー公(元アランソン公)フランソワ、ダンヴィルら不満派はカトリック同盟に与しており、戦況はユグノー側に不利であった。結局、アンリ3世とユグノーはボーリュー勅令でなされた譲歩の多くを撤回するベルジュラック協定を結び、6日後にこれを確認するポワティエ勅令を発した[44]。, 王弟アンジュー公フランソワとその支持者たちはネーデルラントの反乱に介入して戦争を行い、宮廷に混乱を生み出し続けていた(アンジュー公フランソワはネーデルラント北部諸州連合の君主の地位を提案されていた)。一方、地方の情勢はカトリックとプロテスタントが自衛のために武装して無秩序に陥っていた。, 1579年11月、コンデ公アンリがラ・フェールを襲撃し、新たな戦争が始まった。「恋人たちの戦争」(guerre des Amoureux)と呼ばれるこの戦争は、1580年11月にアンジュー公フランソワとの交渉によりル・フルクスの和議が結ばれて終結している。, この脆い妥協は、1584年6月に国王の末弟で推定相続人のアンジュー公フランソワが死去したことにより終わった。アンリ3世には世継ぎがなく、サリカ法に基づく次の王位継承者はルイ9世の血を引くナバラ王アンリとなるが、彼は従弟のコンデ公アンリとともに教皇シクストゥス5世から破門された身であった。ナバラ王アンリがプロテスタント信仰を捨てないと明らかになると、12月にギーズ公アンリはカトリック同盟の代表としてスペイン王フェリペ2世とジョアンヴィル条約を結んだ。フェリペ2世はフランスの内乱を続けさせ、カルヴァン派を壊滅させる目的で、続く10年間カトリック同盟に莫大な援助を提供することになる。, ギーズ家の圧力の下で、1585年7月にアンリ3世は渋々ながらヌムール勅令を発し、プロテスタントの礼拝禁止と改宗に応じない者の国外追放を強いる弾圧政策と、ナバラ王アンリの王位継承権無効を宣言した。教皇シクストゥス5世もこれに応じて、ナバラ王アンリのナバラ王位とフランス王位継承権の剥奪を宣言する[45]。, 当初、国王はカトリック同盟の指導者を取り込んで交渉による解決に持ち込もうと図っていた。だが、この動きはユグノーを破産させてその財産を国王と分割しようと望んでいたギーズ家にはひどく嫌われた。状況は悪化して、再びユグノーとの戦闘状態に突入してしまう。ナバラ王アンリはドイツ諸邦やイングランド王エリザベス1世からの援助を求め、また不満派や穏健派カトリック(ポリティーク派)と手を結ぶ[46]。1587年10月20日のクートラの戦いでナバラ王アンリはカトリック軍に大勝した。, 一方、強硬派カトリックの16区総代会の影響の下、パリ市民はアンリ3世自身と彼がユグノーを撃破できないことに不満だった。1588年5月12日、アンリ3世がギーズ公の命を狙っていると疑ったパリ市民が、ギーズ公を守るために通りにバリケードを組んで蜂起し、恐れたアンリ3世は逃亡してしまう(バリケードの日)。16区総代会が市政を掌握し、ギーズ公が市への補給路を確保した。王太后カトリーヌが仲介して統一勅令が出され、国王はヌムール勅令の再確認、ナバラ王の叔父ブルボン枢機卿(ギーズ派)を王位継承者に承認、ギーズ公の国王総代官任命といったカトリック同盟の要求をほとんど全部飲まされた。, パリへ帰還することを拒んだアンリ3世は、1588年9月にブロワで三部会を招集した。三部会の間、アンリ3世は平民部会の議員たちがカトリック同盟に操られていると疑うようになり、更に10月に起こったサヴォイア公カルロ・エマヌエーレ1世によるサルッツォ侵攻はギーズ公による手引きによるものと確信する。ギーズ家が王権に対する脅威であると考えたアンリ3世は、先手を打つことを決意した。12月23日、ギーズ公と弟のギーズ枢機卿は国王衛兵隊が仕掛けた罠にかかった。その日、ギーズ公はブロワ城に到着し、弟の枢機卿が待つ会議室に入る。彼は国王室の隣の書斎で国王が会見を望んでいると告げられた。そこで衛兵がギーズ公に掴みかかり、心臓を刺して殺し、他の衛兵がギーズ枢機卿を逮捕した。ギーズ枢機卿は連行中に矛で突き殺されている。昂奮したアンリ3世は病床にあった母カトリーヌの部屋に駆け込み「私だけがフランスの王になった。私がパリの王を殺した」と語ったという[47]。, もはや王権に対抗する者はいないと信じたアンリ3世は、ギーズ公の息子シャルルを投獄してしまう。この混乱の最中の1589年1月5日、病床にあった王太后カトリーヌが70歳で息をひきとった。, だが、カトリックの守護者と見られていたギーズ公アンリのフランス国内での人気は非常に高く、カトリック同盟はアンリ3世に対する宣戦を布告する。アンリ3世はユグノーの盟主であるナバラ王アンリの軍に加わってカトリック同盟に戦いを仕掛け、これに対してパリ高等法院が国王の有罪を申し立てた。, ギーズ公亡き後、弟のマイエンヌ公シャルルがカトリック同盟の新たな首領になった。同盟は様々な偽名を使って国王を中傷するパンフレットを発行し始め、パリ大学はアンリ3世を退けることは必要であり、正義であると宣言する。これにより多くの市民にとって王殺しに対する道義的障害がなくなった。, 1589年8月1日、ユグノー軍とともにパリを攻撃すべくサン=クルーに滞在していたアンリ3世は、ドミニコ会修道士ジャック・クレマンとの謁見中に襲われ、ナイフで脾臓を突き刺された。クレマンはその場で殺され、何者かの指示があったか否かは語らなかった。アンリ3世は死の床へナバラ王アンリを呼び、国政運営のためにカトリックへ改宗するよう懇願し、もしもこれを拒否すれば酷い戦争が続くだろうと訴えかけた。サリカ法に則り、アンリ3世はナバラ王アンリを王位継承者に指名する。翌日未明にアンリ3世が死去し、ヴァロワ朝は断絶した。, 1589年時点で、新たにフランス国王に即位したアンリ4世は南部と西部を確保し、カトリック同盟は北部と東部を支配していた。カトリック同盟の主導権はギーズ家一門のマイエンヌ公シャルルに委ねられた。カトリック同盟はブルボン枢機卿を「シャルル10世」として国王に擁立し、マイエンヌ公は王国総代官に任命されている。カトリック同盟はノルマンディー地方のほとんどを支配していた。だが、9月のアルクの戦いでアンリ4世はマイエンヌ公に大勝を収め、国王軍は冬季に町々を攻略してノルマンディーを掃討した。, アンリ4世はフランス平定のためにはパリを攻略せねばならないと知っていたが、これは容易なことではなかった。プロテスタント化したイングランドにおける聖職者や平信徒に対する残虐行為の話がカトリック同盟によって出版され、またその支持者たちにより広められていた。パリ市民はカルヴァン派の国王を受け入れるよりは死ぬことを覚悟して、戦う準備をしていた。, 1590年3月14日のイヴリーの戦いでアンリ4世は再びマイエンヌ公を破った。国王軍はパリを包囲したが、8月末にパルマ公アレッサンドロ率いるスペイン軍が歩兵1万8千と騎兵隊5千をもって来援したため、包囲を解かねばならなかった[48]。1491年11月から1492年3月のルーアン包囲戦も同じ結果になった。, 一方、1582年にアンリ3世にブルターニュ総督に任命されたメルクール公フィリップ・エマニュエルはこの地域を独立させようと図っていた。カトリック同盟の指導者の一人であるメルクール公は、かつてのブルターニュ公の子孫であり、かつブロワ=ブロスの相続人であった妻マリー・ド・リュクサンブールの世襲権を使い、ブルターニュ公領とパンティエーヴル公領の所有権を主張し、ナントに政府を樹立する。息子を「ブルターニュ公爵かつ王子」であると宣言して、彼はスペイン王フェリペ2世と同盟した。フェリペ2世は王女イサベル・クララ・エウヘニアをブルターニュ女王にしようとしていた。スペインの助けを受けたメルクール公は1592年にモンパンシエ公アンリ率いる国王軍をクラン (Craon) で破った。だが、イングランド軍の増援を受けた国王軍はすぐに優勢をとり戻している。, 1590年5月にカトリック同盟が擁立したシャルル10世(ブルボン枢機卿)が死去した。1593年にマイエンヌ公は国王選出のための全国三部会を招集するが、無論アンリ4世はこれを妨害し、カトリック同盟のみが参加した。スペイン王フェリペ2世は王女イサベル・クララ・エウヘニアをフランス国王に送り込もうと企てるが、パリ高等法院がこれに反対してカトリック同盟の足並みが乱れた[49][50]。, 1590年から1592年の一連の戦役にもかかわらず、アンリ4世は「パリを取るには程遠かった」[51]。アンリ4世は根強いカトリックのパリ市民がプロテスタントの国王を受け入れる見込みはないと悟った。彼は1593年7月の寵妃ガブリエル・デストレへの手紙で「とんぼ返りを打とう」と書いている[52]。それから程ない7月25日、アンリ4世はサン=ドニ教会でカトリックに改宗した[53]。巷間知られるところによれば「パリはミサをする値打ちがある」(Paris vaut bien une messe)と語ったという[54]。, アンリ4世はカトリック教会に受け入れられ、1594年2月にシャルトル大聖堂において成聖式を行う。本来はランス大聖堂で行わねばならないが、ここは依然としてカトリック同盟の勢力下にあり、アンリ4世の誠意を疑って敵対していたためである。3月22日、アンリ4世は遂にパリに入城し、服従を拒否した120人のカトリック同盟のメンバーはパリから追放された[55]。パリの開城により他の多くの都市も後に続き、ベアルンでのカトリックの復旧と高位官職にはカトリックのみを任命すると定めたトリエント布告の見返りに教皇クレメンス8世がアンリ4世を赦免して破門を取り消すと、残った都市も国王の支持に回った[56]。アンリ4世の改宗はプロテスタント貴族たちを悩ませた。その時まで彼らの多くは妥協ではなく勝利をして、フランス教会の完全な改革を望んでいたからであり、彼らがアンリ4世を受け入れたのはこのような結果のためではなかった。ユグノーはアンリ4世の妥協的な態度を警戒し、1594年と1596年に政治会議を開いて国王へ警告を発している[57]。, 1594年の終わりには幾分かのカトリック同盟のメンバーが依然として国中で活動していたが、全てはスペインの援助頼みだった。そのため、アンリ4世は1595年1月にスペインに宣戦布告を行った。これは、カトリックに対してはスペインが宗教をフランス侵略の口実に使っていると示すため、プロテスタントには国王はカトリックに改宗したが決してスペインの傀儡ではないと示すためであった。また一方で、スペインとの戦争により領土を獲得することも望んではいた[58]。戦いは主にカトリック同盟を標的にして、フォンテーヌ=フランセーズの戦いなどが行われたが、春からスペインが集中攻勢をかけ、4月にカレーとアルドが占領される。1597年3月に国王軍はアミアンを包囲し、9月にこれを降伏させた。これより前の1596年1月にマイエンヌ公は降伏し、他のほとんどの地方もアンリ4世に帰順し、カトリック同盟は瓦解していた[59]。, アミアンを落とすと、アンリ4世の関心はブルターニュへ向き、1598年初めにメルクール公を標的に進軍し、3月20日にアンジェで降伏を受け入れた。その後、メルクール公はハンガリーへ亡命し、彼の相続人である娘はアンリ4世の非嫡出子ヴァンドーム公セザールと結婚している。, アンリ4世はポンポンヌ・ド・ベリエーヴルとブリュラール・ド・シルリーを和平交渉のためスペインへ派遣した。ナント勅令の後の1598年5月にヴェルヴァン条約が結ばれ、戦争は正式に終わった。, アンリ4世は、破壊され疲弊しきった王国の再建と、唯一の権威の下で統一をする責務に直面していた。彼と国王顧問シュリー公はこの第一歩として、ナント勅令について話し合った。1598年4月13日、アンリ4世はナント勅令を発し、プロテスタントの信仰の自由を保障し、一定地域に限られていはいたが礼拝を認めた。また、ラ・ロシェルなどの都市を安全保障地とし、政治・軍事の自治権が与えられた。, これは単なる寛容政策の証ではなく、双方の宗派の自由を保障することによって宗派間の怨恨を休戦させる類のものであった[60]。勅令はこの宗教戦争を終わらせる画期であると言われるが、当時の史料にはこれによる明確な成果は確認されていない。実際、アンリ4世は1599年1月にこの勅令を通過させるために高等法院へ自ら訪れねばならなかった。, 宗派間の対立はその後何年間も政策に悪影響を及ぼし続け、二度と同様の勅令を出さなかったにもかかわらず、アンリ4世は幾度も生命の危険にさらされ、そして最後に、国王がキリスト教徒としての責務を果たさなかったと信じた一人のカトリックによって、それは成功した。1610年5月14日、アンリ4世は狂信的なカトリック信者に暗殺された。, ナント勅令によって戦争は終結したものの、ユグノーに与えられた政治的自由(中傷する者からは「国家の中の国家」と言われた)は、17世紀を通じて次第に騒動の元となる。南フランスの一部にカトリックを再導入するルイ13世の決定は、ユグノーの反乱を引き起こしてしまう。1622年のモンペリエ協定により、武装したユグノーの都市はラ・ロシェルとモントーバンの2つに減らされた。これに続く戦争で、リシュリュー枢機卿が指揮する国王軍がラ・ロシェルを14ヶ月間包囲した(ラ・ロシェル包囲戦)。1629年のラ・ロシェル和議により、過去の勅命による諸特許(brevets)は全て取り消されてしまったが、プロテスタントは戦前と同じく信仰の自由は保てた。, ルイ13世の残りの治世とルイ14世の幼少期、勅令の実施は年々様々に変わった。1661年、ユグノーを敵視するルイ14世がフランス政府の実権を握ると、勅令の条文の幾つかを無視し始める。1681年、竜騎兵の迫害(dragonnades)政策を始め、ユグノーの家族にカトリックに再改宗するか他国へ移住するかを迫った。最後にはルイ14世はフォンテーヌブロー勅令を発し、過去の勅令を正式に取り消し、フランスにおけるプロテスタントを非合法化した。勅令の撤回は、フランスに深刻な損害を与える結果となった。これは新たな反乱は引き起こさなかったが、多くのプロテスタントが改宗するよりはフランスを去ることを選び、ほとんどがイングランド、プロイセン、オランダ、そしてスイスへ移住している。, 18世紀に入った頃には、プロテスタントは中央高地の僻地セヴェンヌ山脈にかなりの数が残っていた。カミザール(Camisard)の名で知られるこれらの人々は、1702年に政府に対して反乱を起こし、1715年まで戦い続けた。その後、カミザールはおおよそ平穏のうちに取り残されている。, 武装した平和(1563年 - 1567年)と第2次戦争(1567年 - 1568年), Carter Lindberg, 'The European Reformations' (1996) p282.

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